演劇家・横山真が己の表現の追求・具現化のために発足したプロデュースユニット。生(LIVE)の表現にこだわり、演者から発せられる音・熱・呼吸・視覚的印象などを五感+αで感じられる作品創造を目指す。


by yukinone_makoto
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1/6(日) 『一言主の神』 稽古4日目

1/6(日)13:00~22:00(横山15:30~18:30抜け) @10-BOX box-6

【外界への印象】
《天候》
●晴れ
・日差しが気持ちよい
《空間》
・昼からの際には開放感が違うなと感じた

【稽古前の身体状況】
・昨日に引き続き左目が痛む
・身体が全体的に硬い
・鼻が詰まっているせいで気付くと口呼吸になっている
・右膝に痛みがまだ残っている
・呼吸がもうひとつ落ちきらない

【今日のテーマ】
◆言葉一つひとつのイメージを正確に

【ふりかえり】
やはりというか何というか、言葉を伝えるということはこんなにも難しいことなのだなと、そんなことを改めて痛感させられた今日の稽古であった。

今回の自分は、先日も書いたが地の文を担当しているのだが、しかし普通の朗読劇とは違ってこの地の文を担当している自分にもキャラクターというか、役が存在している。
もう少しわかり易く書くと、地の文を読む、というのは役割であって、演じるべき役はまた別に存在しているのだ。
つまり、今回の作品にはテキスト以前に一人ひとりに演じる役があって、その役がこの『一言主の神』というテキストを読み聞かせている、という構造になっているのである。

ただ単純に自分として文章を読み、それを観客に聞かせるのではなく、ひとつフィルターを挟んだ上での読み聞かせ、ということになる訳だ。

まあ、それでも登場人物を担当している人はその役として他の役との関係に集中して台詞を読めばよいのだけれども、地の文となると話は別で、関係を取るべき対象は他の役ではなく観客なのである。
役として、テキストを通して観客と関係を取ってゆくのだ。

個人的に、そこが今回の作品を創ってゆく上で非常に難しく、厄介なポイントなのだと思っている。

今の自分は、役としても語りとしてもどっちつかずの非常に中途半端なスタンスで舞台上に立ってしまっているように感じている。
別にどちらかに重心を置かねばならない訳でもないのだろうけれども、しかしだからといって中途半端なままで創作に臨んでしまうことが得策とも思えない。
偏らないのであれば、ちゃんとその半端な位置に身を置くのだということを選択するということも創作にとってはとても大事なことなのだから。

おそらくなのだが、「役として、語りを行う」という在り方が一番ベターなのかなと今の時点では思っている。
要は、「役か語りか」という二者択一の在り方で考えるのではなく、それぞれを位相の違うものとして捉え、両立させることができないか、と発想してみてはどうだろうか、ということである。
但しそれを行う際に気をつけねばならないことは、「語りの拙さを役のキャラクターでお茶を濁す」という方向に持っていってはならない、ということだ。
それは単純に「逃げ」でしかないと思うし、そんな小細工ではとてもじゃないが一時間もの時間を成立させることなど不可能だと思う。

むしろ「こんなキャラなのに語りは完璧」というような状態であった方が観ていても面白いし、表現をする上でも選択肢が増えるので作品が今後大きく育ってゆけるのではないかとも思う。
なので、やるべきこととしては、まずは語りとして必要な作業は常日頃から徹底して行うようにし、その上で役としての在り方を追究していってみることがよいのかもしれない。

そこを意識して、今後過ごしていってみようかと思う。

【次回稽古(1/8)に向けて】
◆宿題…言葉を身体へとしっかり落とし込む
◆テーマ…口だけにならず、身体で言葉を発する


横山 真
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by yukinone_makoto | 2013-01-07 17:05 | 稽古場日記